2005年06月22日

・遺棄化学兵器処理@中国の要求

Sankei Web 産経朝刊
 遺棄化学兵器処理 中国案では1兆円超 施設分散を要求、膨張(06/22 05:00)

 中国に遺棄されている旧日本軍の化学兵器の廃棄処理をめぐり、日中両国が交渉を進めてきたが、中国側の要求を受け入れた場合、日本の拠出金は一兆円超となる見通しであることが、日本側の非公式な試算でわかった。処理施設を一カ所に集中させる日本案に対し、中国側が複数設置を求めているためだが、遺棄砲弾数をめぐる認識でも日中間には三倍近い開きがある。付帯施設の建設費などが加われば、日本の負担は地滑り的に膨張する公算が大きく、処理事業は苦境に立たされ、ぎくしゃくする日中関係をさらに悪化させる可能性がでてきた。

 遺棄化学兵器の処理は、中国が一九九七年四月に化学兵器禁止条約を批准したのにともない、日本が十年後の二〇〇七年四月までに廃棄する義務を負う。これを受け日本政府は九七年八月、現内閣府内に遺棄化学兵器処理対策室(現処理担当室)を設置し、中国側と廃棄に向けた交渉を続けてきた。

 内閣府が所管し、外務省、防衛庁で構成する現地調査団の報告によると、中国国内に遺棄されている砲弾は約七十万発と推定される。施設の設置場所について両国は、砲弾の九割以上が集中する吉林省敦化市郊外のハルバ嶺にすることで合意している。

 ところが、関係筋によると、中国側は砲弾が吉林省のほか、河北、河南、江蘇、安徽など複数省に分布しているため「移動にともなう危険回避」などを理由とし、各地にサブプラントを設置するよう求めてきた。

 サブプラントの設置場所は、日本が設置した砲弾の一次保管庫がある北京や南京など五カ所とみられているという。

 日本側は、砲弾をメーンプラントと位置付けるハルバ嶺に集め、一括最終処理する案を提示していた。

 これを前提に内閣府が見積もった当初予算は二千億円。年内に国際入札で参加企業の選定に入る方針だが、遺棄砲弾数をめぐっても中国側は「二百万発」と主張し、七十万発とする日本側の認識と大きな隔たりがある。

 今後、新たな砲弾が確認されれば処理作業の長期化も予想され、これに施設増設による建設費の膨張分などが加われば、「一兆円規模という単体では前代未聞の巨大プロジェクトとなる可能性もある」と試算にかかわった政府関係者は指摘する。

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 ■責任・使途不透明 禍根残す恐れ

 日中間の懸案だった遺棄化学兵器の廃棄処理問題は、中国側の新たな要請を受け、一兆円規模という巨額プロジェクトとなる可能性が出てきた。だが、責任範囲すらあいまいにしたまま中国側の要求を受け入れれば、日中関係にも禍根を残す危険をはらんでいる。

 日本側の見積もる予算枠の前提である内閣府の当初計画によれば、中国吉林省のハルバ嶺に建設される施設の処理能力は毎時百二十発。日本が推定する七十万発を処理するには、三年を要するという想定にたつ。

 中国側は遺棄砲弾はその三倍近い「二百万発」と主張するが、そもそも七十万発でさえ化学兵器禁止条約に基づく二〇〇七年四月の期限までに廃棄するのは、物理的に難しい。

 しかも中国側はサブプラントの複数設置を新たに求めており、予算枠にはとても収まりそうにない。

 一方、費用の使途をめぐっても、今後の議論を呼びそうだ。例えば、調査活動に協力した中国人スタッフに日本側が支払った日当は百ドル。ところが「実際に本人たちに支払われるのは十元(約百三十円)程度」(関係者)とされ、中国側による中間搾取の構造が透けてみえる。

 日本政府は今年三月、対中政府開発援助(ODA)の大半を占める対中円借款の打ち切りを決めたが、一九七九年に始まった対中ODAは累計で三兆三千億円強。対する遺棄化学兵器処理は、わずか数年の間に一兆円規模の拠出を迫られる。

 しかも償還が前提の円借款とは異なり、今回の拠出はいわば出しっぱなしの“無償援助”に近い。無論、廃棄処理は化学兵器禁止条約に基づいて日本が負うべき責務であり、日本は相応の覚悟が必要だが、同時に中国に対しては、誠意と透明性のある環境整備を毅然(きぜん)として求めていく必要がある。(長谷川周人)

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 《遺棄化学兵器》第二次大戦中に旧日本軍が対ソ戦に備え、中国に持ち込んだ化学兵器の未処理分。装填される化学剤は糜爛(びらん)剤(マスタード)など6種。残存数は日本側は70万発と推定し、中国側は200万発と主張している。中国は97年に化学兵器禁止条約を批准。これを受け日本は2007年までに全面廃棄の義務を負った。同条約は「他の締約国の領域に遺棄した化学兵器を廃棄する」(第1条3項)と定める。日中は99年、日本が廃棄に必要な費用や要員を全面提供する覚書に署名した。
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2005年06月20日

・戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き

goo ニュース - (産経新聞)
吉田満著書 乗組員救助の記述 戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き

救助艇指揮官「事実無根」

 戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で、救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根だ」と証言した。手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム「天声人語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として“独り歩き”しているが、指揮官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。

 『戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月、沖縄に向けて出撃する大和に海軍少尉として乗り組み奇跡的に生還した吉田満氏(昭和五十四年九月十七日、五十六歳で死去)が作戦の一部始終を実体験に基づいて書き残した戦記文学。

 この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた。

 これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。

 その理由として(1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない(2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない(3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった−と指摘した。

 松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。

 松井さんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり、吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。

 しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため、「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。

 戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。

 松井さんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。

     ◇

 『戦艦大和ノ最期』 戦記文学の傑作として繰り返し紹介され、ほぼ漢字と片仮名だけの文語体にもかかわらず、現在出版されている講談社文芸文庫版は10年余で24刷を重ねる。英訳のほか市川崑氏がドラマ化、朗読劇にもなった。昭和21年に雑誌掲載予定だった原文は、連合国軍総司令部(GHQ)参謀2部の検閲で「軍国主義的」と発禁処分を受けたため、吉田満氏が改稿して27年に出版したところ「戦争肯定の文学」と批判された。現在流布しているのはこの改稿版を下敷きにしたもの。原文は米メリーランド大プランゲ文庫で故江藤淳氏が発掘し、56年刊の自著『落葉の掃き寄せ』(文芸春秋)などに収めている。
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・第五福竜丸事件

Yahoo!ニュース - 読売新聞
 - 第五福竜丸事件、米の意向で放射能調査中止…文書発見

 太平洋ビキニ環礁で1954年3月、米国の水爆実験でマグロ漁船「第五福竜丸」が被ばくした事件に絡み、当時の厚生省がマグロの放射能汚染調査を事件から9か月後、突然打ち切った背景に米政府の意向があったことを示す文書が、米国立公文書館に残されていることが18日、広島市立大広島平和研究所の高橋博子助手(アメリカ史)の調査で分かった。

 文書は、米マグロ調査協会が55年1月5日、米原子力委員会生物医学部のW・R・ボス博士にあてた書簡。A4サイズ1枚で、同委の科学者と日本の学者らが54年11月に東京で開いた「放射性物質の影響と利用に関する日米会議」に触れ、「会議は明らかに、マグロの被ばく検査を中止するよう(日本)政府に影響を与えた。(中略)検査中止は55年1月1日に実行される。この実現に寄与したあなたたちに祝福の言葉を贈る」と記していた。

 厚生省は事件直後から調査を始め、福竜丸から水揚げされたマグロの放射能汚染を確認、廃棄処分にした。現場周辺調査でも広範囲での汚染を把握。しかし、日米会議の約1か月後には「放射能が多く含まれるのは内臓で、肉部分は安全」として急きょ、調査を打ち切った。その後、米国が慰謝料200万ドルを払うことで政治決着。福竜丸無線長の久保山愛吉さんの死と被ばくの因果関係もあいまいにされた。

 石井修・一橋大名誉教授(国際関係史)は「米国にとって汚染調査結果は、同盟国・日本の反米感情を高めかねず、放射能データを東側に漏らしかねないものだった。原子力委がそれを阻止したことを、書簡は裏付けている」としている。

 高橋助手は、この書簡を、他の研究者と共に今月刊行する「隠されたヒバクシャ」(凱風社)で公表する。
(読売新聞) - 6月18日14時44分更新
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・ベトナム・癒えぬ傷:枯葉剤はいま/下

MSN-Mainichi INTERACTIVE ベトナム
 ベトナム・癒えぬ傷:枯葉剤はいま/下 知ってほしい被害実態

 ◇重い障害、苦しみ続く

 ベッドに横たわる幼児の両目にまぶたはない。突き出た手足が、空(くう)をつかむようにもがく。ホーチミン市にあるツーズー病院内にある「平和村」。案内された2〜5歳までの子どもたちの部屋で、まず私の目に飛び込んできたのが、両目のないチャン・フン・トゥオン・シンちゃん(3)だ。

 「多発奇形症候群の一つだ。外見上、性別の判断もつかない」。小児内科のファン・ティ・ツゥイ女医が説明してくれた。この施設には、枯れ葉剤の影響とみられる25歳までの障害者ら60人がいる。枯れ葉剤の影響は外見だけでなく、知能に障害をもたらすケースも多い。シンちゃんについてツゥイ医師は「うれしい、悲しいの感情表現はできるが、知能の発達は遅れている」とも付け加えた。

 傍らのベッドには、頭が異様に大きい女児が寝ていた。ドー・ティ・ビックちゃん(2)は、頭蓋内(ずがいない)に脳脊髄(せきずい)液が多量にたまる水頭症。「普通の2歳児の頭のほぼ倍の大きさ。これからも大きくなる。言葉は発しません」とツゥイ医師は続けた。

 施設には、枯れ葉剤被害の象徴的存在の結合体双生児の「ベトちゃんドクちゃん」の兄グエン・ベトさん(24)もいた。88年の分離手術で、弟ドクさんは松葉づえを頼りに病院に勤務しながら枯れ葉剤被害の支援を訴えるなどしているのに対して、ベトさんは今も寝たきり。言葉を発することも一人で食事することもできない状態で、回復の見込みはない。

 ベトナム人被害者の補償について、米国政府の態度は冷たい。帰還兵に対しては被害認定した場合は月に最高約1500ドルを支給しているが、ベトナム人には何の補償もしていない。ベトナム人に対しては、ベトナム政府が認定者にドル換算で毎月5ドルを支給しているにすぎない。こうした実態にツゥイ医師の怒りは収まらない。「いまだに被害を受け続けている子どもたちを診ていると心が痛む。戦争体験した人たちの子どもや孫にどんな罪があるというのか」と語る。

 「広島や長崎の被爆者の問題は60年かかって世界に広がった。枯れ葉剤被害を訴える闘いも長くなる」。そう予測するのは、国連のニューヨーク駐在の女性大使などを務めたホーチミン市平和委員会のグエン・ゴック・ユン副委員長(78)だ。ユン氏は「化学兵器である枯れ葉剤の被害は第2、3世代まで及んでいる。その実態を多くの人たちに知ってほしい」と訴える。

  ◇  ◇  ◇

 私たちにとって戦後60年の今年、ベトナムは冷戦下で行われた戦争の終結から30年を迎えた。空からまかれた枯れ葉剤は「負の産物」として今も人々の体をむしばみ続けている。【沢田猛、写真も】

毎日新聞 2005年5月9日 東京朝刊
posted by じゅりあ at 00:51| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆ 瓦版の巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

・ベトナム・癒えぬ傷:枯葉剤はいま/中

MSN-Mainichi INTERACTIVE ベトナム
 ベトナム・癒えぬ傷:枯葉剤はいま/中 生態系の影響、残る懸念

 ◇“回復”マングローブ杯

 生い茂る緑のマングローブ林が一面に広がる。メコンデルタの北東部に接し、ホーチミン(旧サイゴン)市の中心部から南東55キロに位置するカンザー地区内の森林公園。約2700ヘクタールの園内にはワニ園のほかに800匹以上のサルが生息する。

 ベトナム戦争当時、米軍機はこの一帯に枯れ葉剤を大量に散布した。米軍に対抗した南ベトナム解放民族戦線の出撃拠点があったからだ。

 「ここは1・5メートル先も見えないほどマングローブが茂っていたんだ。それが枯れ葉剤の散布で林は跡形もなく消えたよ」

 今は公園のガイドを務める元解放戦線兵士のグエン・バン・タンさん(61)は言う。この地で生まれ育ったグエンさんによると、林は約7万5000ヘクタールの広さがあった。米軍はこの林を旧サイゴン周辺の施設などを襲う解放戦線の出撃拠点とみた。林を丸裸にすれば拠点をたたけると計算し64〜68年に枯れ葉剤の大量散布に踏み切った。

 枯れ葉剤被害調査国内委員会の代表を務めたレ・カオ・ダイ医師(故人)が著した「ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ」によると、散布された森林の総面積は310万4000ヘクタールで、ベトナムの森林全体の約18%を占めた。最も大量に散布された森林の一つがカンザー地区だった。

 グエンさんは、砂漠と化したこの地で戦争終結3年後の78年から始まったマングローブの植林作業を見守ってきた。毎日約3000人規模の作業は3カ月間にも及んだ。そして、80年までに半分近い3万8000ヘクタールの林が復活。その後も、順調に回復し、公園は95年にオープンした。

 「20年前に父に連れられ、ここに初めて来た時、植林されたマングローブの背丈は低かった。父は、今の林は昔とは違い、人工的なものにすぎないと話していた」。通訳のグエン・ニット・ミンさん(27)はそう言って、生態系の変化への影響を懸念する。

 一見、元通りになったように見えるカンザー地区。公園の一角には、解放戦線の兵士1000人のうち860人が戦死したことを記した慰霊碑が建つ。68年にあった北ベトナム軍と解放戦線のテト(旧正月)攻勢に対する米軍側の報復による犠牲者が大半だ。碑は悲惨な戦争のつめ跡を今も残している。【沢田猛、写真も】

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 ■ことば

 ◇南ベトナム解放民族戦線

 南ベトナム(当時)の弾圧に対し、60年にベトナム南部に結成された抵抗組織。北ベトナム(当時)の支援を受け、祖国の平和的統一などを綱領に掲げた。75年4月の旧サイゴン(現ホーチミン)陥落まで米軍側に大きなダメージを与えた。

毎日新聞 2005年5月8日 東京朝刊
posted by じゅりあ at 00:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ◆ 瓦版の巻 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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